その1 | 名古屋の新しいチャンネルだ!
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名古屋の新しいチャンネルだ!〜なぜテレビ愛知は岐阜・三重で映らないのか〜
その1 テレビ愛知との衝撃的な出会い
1.あの頃は地上波が全てだった
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 あなたは、今のテレビのチャンネル数に、不満がありますか?
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 お金さえだせば、いくらでもテレビのチャンネルを増やすことができる。そんな時代になりました。ケーブルテレビ、衛星放送(BS)、通信衛星(CS)、そして地上波デジタル放送。専用チューナーを購入したり、加入したりして、毎月視聴料を払えば、合計100以上ものチャンネルを自在に視聴することができます。お金さえ払えば、どれだけでも選択肢は増えるのです。
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 しかしわずか25年ほど前。1984(S59)年にNHKが、世界初の実用放送衛星「BS-2a」による試験放送をスタートする以前は、各地域の地上波テレビ局が全てでした。
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 つまり、地元の新聞のテレビ欄に掲載されているものしか見ることはできず、お金をいくら出しても、チャンネルを増やすことはできなかったのです。大型アンテナなどを購入し、遠方のテレビ局を受信できるようにするなどの方法で、増やすことは可能だったとしても、結局、地上波テレビ局に変わりありません。また、ケーブルテレビも1987(S62)年以前は、地上波テレビの難視聴対策のみが目的で、自社制作チャンネルはあったものの、多チャンネル都市型ケーブルテレビは、存在しませんでした。

2.当時の名古屋近郊の一般的なテレビ環境
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 ところが当時は、チャンネルを「増やす」ことはできなくても「増える」ことはあったのです。1983(S58)年8月、夏休み。当時小学2年生だった私は、一生に一度の、もう二度と無いであろう経験をしました。
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 昔から私はテレビ好きで、夏休みもテレビをよく見ていました。幼い頃、我が家で購読していた中日新聞のテレビ欄は、左から「NHK総合・3」「CBC中日・5」「東海THK・1」「名古屋NBN・11」「中京CTV・35」「NHK教育・9」と並んでおり、その右、一番端は上下半分に分割されていて、上が「三重MTV・33」、下が「岐阜GBS・37」となっていました。我が家は、岐阜県に隣接しているにもかかわらず「37」の岐阜放送テレビは受信できず、それ以外、新聞に掲載されていた7つのチャンネルを、見ることができました。
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 当時、我が家にはダイヤル式チャンネルのテレビしかなく、1から12のVHFは、「ガチャ」と新聞のテレビ欄の数字にそのまま合わせれば映ったのですが、13から62のUHFのダイヤルは、全ての数字が記載されているわけではなく、だいたい見当をつけて合わせて、UHF「35」の中京テレビと「33」の三重テレビを見ていました。
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 しかし、三重テレビは遠方で、なおかつ専用アンテナを建ていなかったので、映りが悪く、また、放送も夕方5時台からであり、中日ドラゴンズの試合以外、普段はあまり見ていませんでした。そのため、UHFのダイヤルは「35」に固定されている状態でした。したがって、中京テレビを見る際は、VHFダイヤルを「U」に合わせればよい状態だったため、「ユーにチャンネル変えて」と言っていました。
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 UHFは「35」にほぼ固定されていた我が家のテレビですが、好奇心旺盛だった私は、ちょっと左右にいじってみたりしました。UHFのダイヤルを、中京テレビから少し左に回すと三重テレビが映ります。ところがです。さらにもう少し左に回すと、なんとNHKが映るのです。
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 しかし新聞に、そのようなチャンネルは見当たりません。親に聞いても「そんなチャンネルは知らない」と言うので、「でも、映ってるこれは何?」としつこく聞くうちに、親は根負けして、NHKに電話をかけて聞いてくれたのです。するとそれは「31」のNHK津放送局だということがわかりました。私の親は、「何でそんなものに興味をもち、知りたがるのか。」と疑問だったに違いありません。

3.新しいチャンネルだ!
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 そんな、テレビ自体に興味津々だった私は、何を思ったのか夏休みの昼下がり、UHFのダイヤルをさらに左へ回してみました。この時の衝撃は今でも忘れません。
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 そこにいきなり、画面の中央に「25」と大きく書かれたテストパターンが現われたのです。
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 テストパターン自体は見たことがあったので、不思議ではありませんでした。それは、三重テレビが当時、放送開始が夕方だったこともあって、昼間はずっと「33」というテストパターンをを出していたからです。しかし、「25」というチャンネルは、新聞にも載っておらず、親に聞いても、それほどテレビに関心の無かった親は、新しいテレビ局ができるということを知らず、当然小学生の私もそんな情報は知らなかったので、全く未知のチャンネルとの遭遇に、ものすごい興奮を覚えました。
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 その、未知の25チャンネルでは、ピアノの曲がかかっていました。私はまるで、魔法にかかってしまったかのように、じーっと画面を見つめていました。画面には、真ん中に「25」、左上に「TVA」、右下に「JOCI-TV」と書いてありました。
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 そして曲が終わったその時、アナウンスが流れたのです。女性の声でした。「JOCI-TV、こちらはテレビ愛知です。25チャンネルで、ただいま試験電波を発射しております。」今思えばその声は、テレビ東京の川島アナウンサーでした。
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 「テレビ愛知」
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 初めて聞く言葉に、驚きを隠すことができず、アイロンをかけていた母親に、「テレビ愛知、テレビ愛知だって!」と興奮して報告したのを、今でも憶えています。まだ我が家にビデオはなかったので、この試験電波をテープレコーダーで録音しました。この時から、もうすぐ25年の月日が経とうとしていますが、そのテープは、今でも大切に保存してあります。小学2年生の夏休み、私の一番の思い出です。これから先、地上波で新たなテレビ局はもう開局しない見通しですし、万が一開局するとしても、開局するという情報が、あらかじめ耳に入ってしまうので、未知のチャンネルとの遭遇は、一生に一度の経験となったわけです。
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 テレビ愛知は、中京テレビと同じ送信所から電波を出していて、既に中京テレビ向けにアンテナを建てていた家では、何も調整することなく、「25」にさえチャンネルを合わせれば、視聴可能だったため、お金も手間もかけることなく、チャンネルが増えることとなったのです。

4.しかし記念すべき瞬間には立ち会えず
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 そして何日かすると、「サービス放送」が始まりました。それまでは、夜8時までテストパターンが出ているだけだったのが、普通の番組を放送するようになったのです。画面の下には、「ただいま、テレビ東京の番組を放送しています。」というテロップが出て、9月1日に正式開局する告知も流れました。
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 9月1日が近づくにつれて、私の期待は高まりました。もちろん、開局当日は、朝早く起きて、その瞬間を目に焼き付け、なおかつテープレコーダーで、録音するつもりでした。しかし、この後、想像を絶する、あれからずっと、悔やんでも悔やみきれない事件が起きてしまうのです。
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 それまで、購入してから10年以上、我が家のテレビのUHFのダイヤルは「35」と「33」の間をチョコっと動かすだけのものでした。しかし、私が興味本位で「25」の試験電波や、サービス放送を見るようになり、それまで、あまり動かされることの無かったUHFのダイヤルを、やたらと回したため、なんと開局の前日、8月31日に、壊れて回らなくなってしまったのです。
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 当時我が家に、テレビは2台あったのですが、1台はVHF専用テレビ。UHFが見られるのは1台のみです。親に「テレビ買って」と言ったところで、当時はまだテレビは高価であり、買ってもらえるはずがありませし、「修理だして」と言ったところで、1日で直るわけがありません。たぶん、私は当時、テレビ愛知の開局を最も楽しみにしていた小学2年生だったはずです。その私が、開局の瞬間を見ることができなかったのです。これは今でも、悔しくて悔しくて仕方がありません。
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 それから23年の月日が流れた2006(H18)年、名古屋のテレビ局の合同特番で、テレビ愛知の開局の瞬間の様子が流れ、ようやくその願いは一応叶うことになります。

教訓
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電化製品はやさしく扱いましょう。
次回予告
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次回はそのテレビ愛知に潜む「特異性」に注目します。名古屋っ子なら経験ありませんか?岐阜県や三重県の人とテレビの話が合わなかったこと…。
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